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粋の研究と言えば九鬼周造の書いた"「いき」の構造"が有名である。彼はこの著書の中で「いき」は媚態、意気地、諦めから出来上がっているとしている。それはそれで間違いはないのだが、彼が検討を加えた「いき」は飽くまで美意識としての「いき」である。つまり着物の柄だの帯の締方だのといったレベルでの話である。その程度の話しが、はたして美意識としての「いき」が、九鬼氏が言うが如き「わが民族存在(原文傍点)の自己開示」なのであろうか?("「いき」の構造"は岩波文庫から出ている。p95-96。また《いき》の構造と日本の伝統、竹内芳郎、「伝統と現代」50号、1978.1、伝統と現代社p32-41を参照せよ。)
字引的にも、例えば前田勇の「江戸語大辞典」(講談社昭和49年)に"いき【意気】〔名・形動〕明和頃、深川の岡場所に流行し、のち一般化した語。粋であること。あかぬけしていること。洗練された美があること。しゃれていること。"と説明されている。しかしこれでは「いきなはからい」とか「いきな裁き」といった「いき」が、具体的に何を指すのか分からないのではないだろうか?一方に九鬼周造や字引の説明する美意識としての「いき」があり、これを「小いき」とすれば、もう一方に行動規範、倫理、もしくはイデオロギーとしての「いき」があり、こちらは大上段に振り被っていえば「大いき」になるだろう。「いきと現代人の美意識」(名著出版、昭和63)を書いた小高恭(こたかきょう)のように、この「いきなはからい」という言い方が「ある意味で内面的な所に於て江戸のいきを本質的に受け継いでいるのではないかと」(p66)まで考える人がいるのだ。「いきなはからい」は「いき」を考える上で重要な「何か」であり、「いき」の本質の二分の一や三分の一位は担当していると考えてみたところで大きく間違ってはいないだろう。大小のいきに共に通じる何かに「いき」の本質があるようにも思える。ここでは少し大袈裟に近世日本固有の「思想」としての「いき」を考察の対象にしてみよう。
粋(いき)の語源について大橋紀子は(「粋・意気・通と仇:近世の美意識」武蔵野書院)、「すい」→「粋」という文字と「意気」→「いき」という意味とが融合してその後の「粋」=「いき」へ繋がったと考えている。その「すい」の系譜の中には相手の立場、気持ちを推し量る「推」も存在していたわけだ。私などはこの「推」から「いきなはからい」へ繋がったのではないかと考えている。ところで一度「いきなはからい」に話が及ぶと、その主体がしばしば「江戸に於ていきが発生した遊里とは全く別個の、反対側の立場に立つ」(小高p67)公権力の側、「野暮なお上」の側であることは無視出来ない。小高氏のように単純に公権力の側は「いき」とは別個、反対側と考えると「野暮」な人間が「いき」なはからいをする主体になっているというパラドックスが成立してしまう。やはり「いき」はただ単なる美意識の問題ではなく、またある人がその立場によって自動的に「いき」や「野暮」に振り分けられるといった、硬直した社会構造の問題でもなく、権力や金力の行使の仕方を巡る「倫理」や「イデオロギー」の問題であり(無論声高に「倫理」の「イデオロギー」のと言い立てるのはそれ自体随分「野暮」なことなのだが)、しかもそのイデオロギーはまんざら官許のイデオロギーと両立不可能という関係にはなっていないらしいのだ。
「いき」という言葉に美意識としての用法とイデオロギーとしての用法があるとなると、どちらがより本質的な用法であってどちらが派生的用法であるか、という「いき」本質論を展開することも可能になって来る。しかし日本では「いき」などのような庶民の間から自然発生的に湧き上がって来たイデオロギーをイデオロギーとして正面から受け取め、その思想性を堂々と論じるということは未だなく、もっぱら異国渡りの思想を思想として論考し、考証し、批判し、あるいは絶賛して事足れりとして来た。かつて一時期日本に於てもマルクス主義思想が流行ったことがあって、その時には「日本庶民思想史」なる言葉ばかりは存在したこともあったが、その内実たるや、古文書をひっくり返し、庶民の片言半句を摘み出して、それが体制批判的なればすなわち「民衆思想」とし、体制迎合的なればこれを「後進性」と呼んで事足れりとしていた。すなわち日本庶民の間に培われた独自の思想の再発見に努めるにあらず、ただただこちらの側に立ってマルクス主義思想を無理無理過去の日本人に押し付けていただけである。かくして「いき」などという庶民の間から湧き起こった漠たる感情を、その感情が因って立つ論理にまで遡ってその思想性を問題にするがごとき試みは、未だ行われたことがなく、日本庶民の側でもそういう理屈というのは酷く不得手にして、ついに「いき」というは女にモテルこつである、精々近世日本的美意識なりという程度に歪小化されたまま今日に至っている。なにもこれは日本の学者先生が「ひとは相身互い」という「いき」の根本をなす対等主義の思想の断片を廓通いの粋人、通人の間に見い出さなかったというのではない。例えば中野三敏「すい・つう・いき」pp.120-121「講座日本思想・第五巻・美」東京大学出版会S59を見よ。ただ「いき」という庶民感情なり国民感情を西洋の人道主義に匹敵する大思想に引き上げる思想家が日本に現れなかったというだけである。精々それは「生活規範」程度のものとして見過ごされてしまっていた。例えば関光三「いきの源流ー江戸音曲における"いき"の研究ー」六興出版昭和60年第一章「いきということ」第五章「明治以降いきの消長」(いずれもいきは傍点)を見よ。また河原宏は「転換期の思想ー日本の近代化」早稲田大学出版部1963の第四章「『いき』であることの社会的意味」で「実にこの権力にも、金力にも屈しない心意気こそ「いき」の精神であるとされた。それは場合によっては命をかけるに値する理想とも仰がれた。」p215-6と「いき」のイデオロギー性に最接近しながらも「いき」を随分と刹那的なるものと考えているようだが、これは河原氏が「いきなはからい」を終始視野の外に置いていたためであろう。
しかるにトクガワ・ジャパンという時代は中世日本の下克上思想をその尻尾として引きずりながら、全く独自の「いき」革命というべき思想革命が展開されていた時代であって、欧米諸国が徳川後期に平等な社会関係を基礎とする近代社会に突入して行く中、ほぼ同時代に対等な人間関係を基礎とするポスト封建社会へ向けて、まさに離陸せんとしていた。この点を考えるには個人の尊厳とその人の身分や財産の関係をどう認識するかが大きな問題点になってくる。仮に人間の尊厳はその人の身分や財産に影響されるべきであり、現に影響されていると考えるならば、人々は何等の道徳的苦悩をも感じないでいるはずである。しかし人間の尊厳が身分や財産に左右されるべきではないと考え、その上で実際には左右されていると考えるならば、何等かの「対策」が考案されても何の不思議もないだろう。この対策が人間の尊厳とその人の皮相的特性(地位とか金とか)とを結び付ける社会的風潮に向けられるなら、それは「無闇に威張り散らす武士」を嘆いた、そしてただただ嘆くだけだったトクガワ知識人的立場となるだろう。そして人間の尊厳が身分や財産に左右される社会的風潮を嘆く社会的風潮の中から登場したのが「いき」というイデオロギーであり、「いき」革命の担い手達の用いた武器が嘆きや冷やかしや悪口だったのである。一方、人間の尊厳が身分や財産に左右されるのは身分や財産があるからだ、そう考える立場からは身分や財産をなくしてしまえという対策が立案される。この考え方は「ブルジョワ革命」や「共産革命」の理論的基礎としてギロチンやシベリヤ流刑に結実していった。しかるに徳川期の漠たる国民感情に過ぎなかった「いき」は、ついに思想として認知されることなく、明治維新以降新たに西洋から輸入された国民主権思想と君主専制思想との対立のなかに埋没してしまった。
イデオロギー的に「いき」を理解しようとすれば、まずトクガワ・ジャパンの官許のイデオロギー朱子学を理解しなければならない。私は「いき」というのは理一分殊を美意識でくるんだもの、もしくは理一分殊の日本的通俗化だと考えている。朱子学というのは仏教に強く影響を受けて出来た儒教で、大乗仏教の悉有仏性の考え方をほぼそのまま取り入れて、人間には誰でも聖人となるべき素質、すなわち理がある、その理というところでは万人は同じ、すなわち一であると考える。無論、理一といっても各個人の地位というか身分というか社会的役割というものはそれぞれに異なっている。それがすなわち分殊である。しかしそれは言わば職業分類なのであって、士であるからといって農工商に比べて格別偉いというわけではない。朱子学を生んだ中国において、士というのは科挙の試験に受かった高級国家公務員である。つまりは試験の成績なのだ。試験の成績で職業が決ってしまうのがいけないというならば、今の日本だって医者や弁護士を試験で決めているのは悪虐非道の封建的慣習ということになってしまう。朱子学のいう士農工商というのは前世のカルマで決るインドのカースト制度などとは違うものである。各人が己の立場に応じ、それなりに自己研鎭に励むならば聖人への道は自ら開かれているというのが朱子学の考え方である。ましてや日本の侍というのは個人的に試験に受かったわけでなし、さらに日本では比較的気安く何の血の繋がりもない赤の他人の間で養子を遣ったり取ったりするし、京都には公家というのがいてその昔侍の身分が低かった、文字通り貴族の身辺に侍う立場だったことを思い出させてくれるし、個人は社会的分業の都合上たまたま士農工商と別れているどれかに分類されているだけのことで、それでそのことをもって偉いとか偉くないとかいうふうに考えるのはおかしい、侍が意味もなく威張り散らしているという批判が江戸時代に識者からしばしば出されている。
大道寺友山の「武道初心集」にはある人のいわくとして、元々世の中には農工商の三民のみで、盗賊対策として農の中から筋目正しき者を三民が選んで農を免じ、上座に立たせて役人としたのが士(さむらい)の起源と説明している。これだと農と士とはたいして身分は違わないのだし、士の本分は三民を保護することであって威張り散らすことではないし、税金をきつく取り立てることしか考えていない武士は士の名に値しないことになる。
武士もその他の人間も根本のところは同じ人間だという考え方は江戸文芸の描く武士や町人のキャラクターに強い影響力を与えていた。諏訪春雄は「元禄文学にみられる武士観は、かれらも町人と変わらぬ人間であるという認識を前提として、しかし、町人とは異なる使命と精神を持った存在であるという見方に支配されている。これは当時の現実の武士階級の在り方にも対応する正常な見方と」言えるとしている。(江戸っ子の美学ーいきと意気。日本書籍1980、p130)このような武士観は武士が次第に町人化し、武士本来の使命や精神が疑わしくなると共に変化する。「この微妙なバランス感覚が化政期の文学にはみられなくなる。一方では馬琴文学に代表される過度な武家階級への期待と崇敬、他方では南北文学に代表される徹底した卑小化、この両極端に分化するのである。」(江戸っ子の美学ーいきと意気。諏訪春雄、日本書籍1980、p130)江戸期日本人にとって武士とは「分」すなわちその社会的使命の問題であって、全人格の問題ではなかった。だからこそ武士が武士であるというだけの理由で尊敬されるべき謂われはなかった。己の分を守り抜く武士は尊敬され、武士が真の武士であることが期待される一方、武士本来の使命や精神を疑わせる武士はどんどん馬鹿にされたのである。
関東における「いき」に少々先立つが、上方で延享4年(1747)出た百花評林の太夫のところに「威あって武からず、位あって巌(きつ)とせず、諸分、意気(いきかた)凡下ならず」の「いきかた」は後の「いき」に繋がるものである。相手の地位身分に諂ったり、自分の地位身分に奢ったりしないことは「いき」であり、人々が「いき」の価値観を内面化するならば、それによって彼らは身分制・階級制を越える。「『いき』の世界に属する男女は、それぞれのもつ現実的世界の階級的・身分的実質から抽出された、純粋で対等な個人であり、異性間の微妙な相互行為の形式をそれ自体としてたのしむ」(現代のエスプリーいき・いなせ・間:現代に生きる日本人の美意識」編集・解説、南博、第141号、昭和54.4.1p105-6、大野道邦。原典、晃洋書房刊、西村先生退官記念論文集編集委員会編「日本の社会」昭和52.4の「日本の文化ー『いき』と『甘え』」p291)、この純粋で対等な個人の人間関係は何も男女の間に限られるものではないし、この「いき」な関係を良しとするのはなにも遊里に遊んでいる人間だけではない。「士、道に志して悪衣悪食を恥じる者は未だともに議るに足らず」「やぶれたる褞袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者はそれ由なるか」(共に論語)の正統儒学の立場からもこの意気(いきかた)は称賛されるべき「生き方」である。儒学、一変せば意気(いきかた)に至らん。意気、一変せば粋(いき)に至らん。士が士であり、お上がその官許のイデオロギー通りの仁政を施くならば、彼らもなにも野暮扱いされる理由はなかったはずだ。彼らが野暮だ野暮だと言われたのは彼らの行ないが民衆の期待に及ばなかったからである。
朱子学を国家のイデオロギーとして採用した徳川家康は日本の啓蒙君主とも呼ぶべき存在であって、朱子学に感化された日本の支配階級が開明的性格を持ったのも当然である。すなわち日本においては被支配階級がそれなりの見識を持つことも良いこととされ、かくて他の国において生意気、片意地と評価されるような被支配階級の言動が意気地とされ、かえって肯定的評価を与えられる可能性を秘めていた。歌舞伎の五大力恋緘、洲崎升屋の場に小万が「ご大身であろうがお大名であろうが、人というものは心意気ばかり…」と大見得を切る場面があるが、こういう台詞が許される社会的風潮が存在したのである。こう言って小万は千島千太郎を振る。しかし彼女が惚れた相手の薩摩源五兵衛は、決して小いきな通人ではない。悪く言えば野暮な、少なくも武骨な侍である。だが頼まれればイヤとは言えず、一度引受ければたとえ主家の千太郎と対立することになっても後には退かぬ。身分賎しき遊女小万のために結果としては随分「いき」なはからいをしてしまう。小万を千太郎から守り通してしまうのである。自分より弱い立場の小万に対するこの「いき」なはからいは、それを貫こうとするとき同時に自分より強い立場の千太郎に対する「意気地」となる。まさに「いきは『抗気』の意が含まれている」のである。(現代のエスプリーいき・いなせ・間:現代に生きる日本人の美意識」編集・解説、南博、第141号、昭和54.4.1p61-2、麻生磯次。原典、河出書房刊「日本文学講座」7巻昭和26.1の「通・いき」の四、p110-111)
そして、こういう身分制度も封建道徳も踏み躙りかねない芝居を源五兵衛が一言「これが千島の国風」と宣言するや、支配者層が容認してしまわなければならないところにこの時代のイデオロギーの特徴がある。たとえ千島の国風が下克上や国人一揆という戦国時代の実力主義、平等主義の尻尾であろうとも、たまたま偶然千島を名乗っている千太郎という個人、それもかなり暗愚な個人より家の伝統の方がよっぽど大事だと支配階級自身が考えている以上「千島の国風」という大義名分を背負って立つ源五兵衛は「千島」という正当性を千太郎から奪って自分の側に引き寄せてしまう。源五兵衛は千島(千太郎)と対立する生意気な家来なのではなく、身を捨てても千島(の国風)を守らんとする忠義の家来なのである。千太郎も源五兵衛もどちらも千島家という法人に仕えているに過ぎない。一方は主人として、もう一方は臣下として両方が共に千島家に仕えているのである。それは言わば職務分掌なのであって、国風というより上位の正当性の力の前に両者は対等の関係に置かれてしまう。そしてこの点を上役に媚諂うことなく堂々と主張するのが「心意気」というものである。千太郎と源五兵衛の場合は遊女を巡って揉めただけだが、もっと大きな問題を巡って君主と家臣団が全面対決し、君主が押し込めを食らったり、解任されたりした例は江戸時代には幾らでもある。(主君「押込」の構造ー近世大名と家臣団。笠谷和比古、東京、平凡社、1988.5を見よ)「いき」はそういう時代背景のもとに生み出されたイデオロギーである。
次に「いき」を生み出し「いき」の宣伝にこれ努めた遊女達の階級的利害(というか職業的利害というか)も理解して置こう。そもそも「いき」ということが言い出されたのは深川あたりの、芸者といえば聞えは良いが、売春婦からであったと言われる。彼女らにとって何が一番都合良く、そして彼女らが自分達にとって都合良いことを如何に身勝手に「いき」と称して客に売り込んでいたかを「いきな遊び」から眺めてみよう。
さて遊女相手の「いき」な遊びということになれば、キレイに金は遣って、何人もカワイコチャンを呼んで、若い衆やら何やらにも心付けは弾んで、酒なども上のものを飲み、肴なども奢り、遊びは面白可笑しく歌やら踊りやら、さてその上は「俺は野暮な用があるから」と遊女には何もしないで「今日は一人寝をさして済まないね」などと言ってそのまま帰ってしまうのが一番「いき」な遊び方だということになっている。何だかんだと言っても遊女の仕事というのは「肉体」労働である。彼女らにすれば出来ればしないで済ませた方が楽である。だから金だけ貰って客にはすぐ帰って貰えればそれが一番良い。しかし本当に客が金だけ払ってすぐ帰ってしまったら、多分次の客を取らされるだろう。見世は儲かるかもしれないが遊女にとって得になることではない。むしろほどほど遊んで夜遅くなって、これからではもう代わりの客がいないという時刻になってから客に帰ってもらった方が遊女としては楽が出来る確率は多いのである。何だかんだ言っても遊女というのは弱い立場である。その弱い立場を理解して(これを一般化すると下情に通じていてということになる)、思い遣りやいたわりの心をもって客が遊んでくれる。それが遊女にとっては一番良い。ブタもおだてりゃ木に登るというではないか。ましてや相手は女郎屋へ来るような抜け作である。おだてようによっては大抵の事は何でもしてくれるはずだ。無論客には客の都合というものがある。客の都合というのは出来るだけ金を遣わないでモテルことである。だがこの心理戦は遊女の側の勝利に終わった。銭惜しみする遊び客を通人呼ばわりするがごときは日本花柳界における全く一時的徒花に終わっている。「いき」な客というのは鼻の下を延ばして散々金を遣わされた挙句、惚れた太夫を野暮の代表選手のような紺屋の職人にさらわれて、祝儀の一包みも出して「幸せになんなヨ」位のことは言わなきゃなんない事になっている。遊女が惚れて貰いたがっている時に惚れて、遊女が諦めて貰いたいと思った時には諦める。全く遊女の都合通りになる客が良い客「いき」な客なのである。かくしていきな遊びをしてみたい、浮き名を世間に知られたいと思い込んだなら、花魁に入れ挙げるだけではまだ不足で、本町の角屋敷を投て大門を打ち、吉原五丁町の百匁蝋燭をことごとく吹き消して、三千娼妓を寝かし付け、
吉原や星か蛍か犬の声
と発句を捻りながら"一人"で夕涼みなんぞをすると、ようやく花魁から「粋だね」「江戸っ子だね」と褒めて貰えるのである。全く遊女の都合である。
さらに言えば、「いき」というのは弱い立場の者や貧乏人の階級的利害から出たイデオロギーである。通が廃たれて、いきに取って換わられる過程では実力派江戸っ子の衰退と、文化の大衆化の力が大きく働いた(江戸っ子の美学ーいきと意気。諏訪春雄、日本書籍1980、p176-180)とする意見はこのことの一つの傍証となろう。この観点からすれば、例えば着物の柄の地味なものが「いき」であるのは、何も九鬼周造が言うように平行な縦縞や中間色に特別の美的象徴性があるからでも何でもない。まず地味な服は安価である。おまけに派手なものと違って地味なものはなかなか飽きが来ないから、何時までも同じ服を着続けることが出来て二重に安上がりである。派手な服が流行れば、どうしても新しい服を次々投入出来る金持ちだけがオシャレを楽しむことが出来る。一方地味な服が流行った場合、金の有るなしよりもセンスの有るなしが問題になる。だから地味が「いき」なのだ。薄着は「いき」だ。浴衣は「いき」だ。素肌は「いき」だ。どれもこれも金の掛からないものばかりではないか。厚化粧と薄化粧なら、薄化粧の方が安上がりだ。元さえ良けりゃブスと違って顔の上に塗装を施す必要などないのだから、薄化粧が流行るというのは貧乏人にとって都合が良い。浴衣など安い物ではないか。これで十二単など流行られてしまったら貧乏人は流行について行きようがない。出来るだけ薄着で足袋など履かない方が良い。その方が金が掛からない。後はセンスの勝負だ。油を付けない洗い髪のどこが「いき」か。鬢付け油がどのくらい高価なものだったか考えてみてもらいたい。油をべたべた塗りたくる金の有るなしより、毎日髪を洗うきれい好きの心を大事にしようというのである。銭湯というのは安いもんだし、何なら家で行水すれば良い。瓜実顔、細面がなぜポチャポチャの丸顔に比べて「いき」なのか。御乳母日傘で育てられ、およそ体を使わずに飯だけ食ってれば、自然肉付が良くなって丸顔になる。世の中には女は肥っていればいるほど美人という考え方の民族だっているのである。だがそれでは美人コンテストから貧乏人を閉め出すことになる。そういう金の有るなしや権力の有るなしと美醜が直結するような価値観に異議申し立てをしようという連中が「いき」の言い出しっぺではなかったのか。同じ縞模様でも縦縞は横縞より「いき」だということになっているが、これも体を細く見せるからである。むろん縦縞が似合うか横縞が似合うかは本人の体形にもよる。元々細身の人間は、つまり食うや食わずで痩せてる人間は、何を着ても似合うというのが「いき」の側の勝手な言い分だ。有り合わせの物しか着れない人間が有り合わせの物を着ているのを「似合う、似合う」と言い立てる訳だ。充分食えて、体質のせいもあって少々太ってしまったような手合いは、縦縞の服でも着て少しでも細く、痩せて貧乏ったらしく見えるように金を遣わなければならない仕組みである。
無論金のない事が「いき」の本質なのではない。金が有って、その金を掛けてお酒落をしたいなら、それはそれで結構。ただ鼻っ先に小判をひけらかすようなミットモネェ真似だけはするなというんだ。人類学のフィールド・ワークを紐解くと、世界の各地に金貨銀貨を綴って、頭飾り顔飾り首飾り胸飾り腕飾り腹飾り腰飾り脚飾りを作り、文字通り鼻の先に金貨ひけらかすのが美人の条件という民族がうじゃうじゃいる。そういう天真爛漫な権力礼賛や金力礼賛のアンチテーゼが「いき」イデオロギーである。
それで、貧乏人と金の有ることよりもセンスの有ることの方を自慢したい社会の上層部がグルに成って、金の掛かる派手派手の着物を「野暮だ野暮だ」と貶して野暮にしてしまったのである。金銀で蝶々を縫った半襟なんぞは「野暮」なのである(春告鳥)。「いき(原文傍点)の発生から三、四十年経った化政期から天保時代にかけていき(原文傍点)は生粋の町人趣味として、ついには生活の規範として広く拡散されるに至るの」(関光三「いきの源流ー江戸音曲における"いき"の研究ー」六興出版昭和60年P163)だが、この「いきvs.野暮」イデオロギー闘争に於いて「いき」の側が勝ったということの意味を考えて頂たい。貧乏人だけが金臭ぷんぷんたる趣向を野暮だ不粋だと言い募ってもゴマメの歯軋に過ぎなかったろう。彼らがイデオロギー闘争に勝てたのは、金もセンスも両方ある側が、金だけあってセンスのない側を馬鹿にして、むしろ金はなくてもセンスがある側と自己を同一視していたからである。そして、このような特権者が自己の特権に安住することを潔しとしない心情の背景に、朱子学の持つ理一のイデオロギーの持つ影響があったと私は勝手に考えている。
さて、「いき」というイデオロギーは身分や財産の存在そのものは肯定しつつ、人間の尊厳がその身分や財産に左右されるべきではないと考え、その実現のために人々が「いき」に生きることを要請している。力有る者が「いき」に振舞うことと力無き者が「意気地」を見せることは強いピアープレッシャーの対象となる。(そもそも徳川期の支配階層が下位身分の者の間の評判を気にするというのが理一イデオロギーの効用である。)だが現実そのものは肯定しているわけだし、ピアープレッシャーだけでは限度がある。その限界のときに革命を求め流血を求めることはもはや「いき」ではない。このような「野暮」が通って「いき」が引っ込む事態に直面すると「いき」は諦めの相を見せる。「さまざまな苦悩の体験が人生に対する諦めともなり、野暮をいわず、嫉妬もせず、さばけた心で男に対することにもなる。『いき』は一種の解脱の相である」(現代のエスプリーいき・いなせ・間:現代に生きる日本人の美意識」編集・解説、南博、第141号、昭和54.4.1p64、麻生磯次。原典、河出書房刊「日本文学講座」7巻昭和26.1の「通・いき」の六、pp113)のも、相手が「いき」なら「苦悩の体験」だってはじめからしないですむのである。また野暮な相手や野暮な体制を力づくで引っ繰り返すつもりなら、「諦め」の必要はない。だが「いき」はそういう革命やら流血騒ぎやら、目を三角にして己の正義を信じ切る独善性やらを「美しい」とは看做さない。これを「いき」の限界と呼ぶなら呼べ、この限界のお陰で「いき」は断頭台やシベリヤ流刑やガス室とは無縁でいられたのだ。
ここらで「やつし」と「意気地」と「いきなはからい」の関係を見てみよう。「やつし」というのは、ある人が俳句や狂歌をする時に俳号、狂名を名乗るが如く、歌、踊り、戯作、絵画、その他何であれ、人が自分の身分に基づく「分」とは直接関係ない行動をする時に、俗名とは別の雅号、別名を使って取り敢えず身分秩序の枠外に臨時に出てしまうことである。あるいは家出、放蕩の挙句大店の若旦那が風呂屋の釜焚きに身をやつしても一向に構わない。いや構わないどころか狂歌の会などでは異なる身分に属する人々が「せーの」で一斉に身分秩序から出ることが常識になっているのだ。こういう時に、相手の身分、職業、地位を敢えて問うのは野暮というものだ。
仮に農民たちが「俺たちは田吾作と馬鹿にされ、高い年貢を取られ、嫌なことばかりだ、せめて半日で良いから身分の事を忘れてしまいたい」と考えて、各々俳号を名乗り俳句の会を始めたとしよう。ところが日本国中で俳句をしているのは水呑み百姓だけ、上つ方は専ら和歌に親しんでいるとなったら、俳句をすることが身分を忘れることになるだろうか。身分の上下に拘わらず共通の趣味を持ち、身分を離れて別名を持っていればこそ、「あの何それという俳諧師は実は何々藩何万石の江戸留守居役であるそうな、それに何々というは実は大阪の大商人の誰それのことなのだと」などと例え同席はしなくてもそのような名を親しく口にし、また、「俺が良い俳句を作ったならば、そのような人にも我が俳号が知られるようになろう、俺が秩父の百姓と知ったならばどんな顔をするだろうか」などと考えるだけでも楽しいものである。その楽しさこそが一時の脱身分だと言って良いだろう。相手が秩父の百姓と知った途端に、「何だつまらぬ奴の俳句を有り難がっていた」などと思うような連中が相手では、むろんこんな楽しい想像は出来ない。つまり「やつし」が脱身分として成立するためには身分の低い人間が脱身分を願っているだけでなく、高い身分の人間も「やつし」という脱身分のルールに合意し、進んで自分の身分を脱身分のユートピアに一時棚上げしなければならない。そのようにして作られた遊行の世界とは身分の何のと野暮なことは言いっこなしの「いき」な人達が作る内々のサークルだったのである。こういうサークルに結集する「いき」な人達はサークルの外においても、身分秩序を建て前として尊重しつつ、実は互いに目配せをして脱身分を謳歌していたはずである。
しかし世の中には野暮な人間もいるのである。不粋な人もいるのである。そういう人間によって身分秩序やそれに付随する一連の倫理を実質としても守れという要求が突き付けられた時に「いき」の側としても大人しく「はい、そうですか」と引っ込む訳にはいかないのである。もちろん、こういう場面を想像して見ると「野暮」の側は多分身分的に上である。身分制の理屈として「要求」なんぞを持ち出せるのは身分が上の側だからである。これに対して「いき」の側が「いやだ」と言ったらこれが「意気地」である。こういう場合「いき」の側は「野暮」を承知でいやなものはいやだと言わなければならないのである。なぜこんな事になるのかというと相手が野暮である以上その相手にも分かるように話をしようとしたら、どうしてもこちらとしても野暮なことまで言わなければならないのである。すなわち、「意気地」とは「いき」と「野暮」の係争地点に生ずるといって良いだろう。「意気地」は「やつし」と違って野暮を相手にしているだけ可成りスリルのある行為である。ただし「いき」は決して徒党を組んで革命をするところまで野暮に成り切ることはしない。自分一人では何も出来ない臆病者が衆を頼んで、とか、相手の立場を斟酌せず、己一人の正義を正義、正義と言い立てて、などというのは「いき」の美意識の許さざるところである。「意気地」が通らなかったら諦めて肩からなりと腰からなりと好きなようにバッサリ切ってもらうしかない。それで赤い血が出ないようなら木戸銭返してやりゃー良いのだ。
「いき」と「野暮」の対立関係において生じる「意気地」や「いき」同志の身内の関係としての「やつし」を語った後で、まだ残されているのが「いきなはからい」の問題である。大体、「いきなはからい」をする主体というのは「いき」な人であるはずだ。客体の側はこの「はからい」を歓迎し、これを「いき」だと評価していることは客体もまた「いき」を支持する側にいる訳である。だとすれば、これは「いき」同志の身内の関係である。ではなぜ「いきなはからい」などという言葉をわざわざ作る必要があったのか。「いき」な人同志が「いき」な付き合いをするのは当然過ぎるほど当然で、お互い何か適当なものに身を「やつし」てさっさと身分なぞ忘れてしまえば良さそうなものだが、公的な「分」に係わる問題になると「やつし」が不可能になる。「やつし」は飽くまで遊芸の世界の話である。
そもそも公務というのは個人がやっているのではない。或る地位身分にたまたまいる人がやっているのである。大事なのはその地位身分であってその個人ではない。そして「いき」は飽くまで脱身分の思想である。決して反身分の思想ではない。「いき」には現存の身分秩序を壊そうという意思はないし、ましてや現存する身分秩序を壊して自分にとって都合の良い別の秩序に作り換えようなどという意思はない。「いきなはからい」はある意味で「いき」が自らに課した非革命性に対するその場限りの彌縫策なのである。「あらゆる行動が統制されていた頭打ちの限界社会のなかで、その限界の息苦しさを超克するために人々はいろいろな遊びの世界に殺到し〔中略〕ホステス女性たちは、まことに魅力的な「いき」の美意識を洗いあげたのである。」(西山松之助、江戸っ子:江戸町人の研究2、吉川弘文館S55. P150)限界だの息苦しいだの随分否定的な言辞が使われているが、だからといって革命を礼賛する気持ちなど当方はこれっぱかりも持ち合わせていない。だとすれば人はどこかでその公的な立場に基づいて或る身分の人間として行動しなければならないはずだ。「いき」はそのこと自体を否定する立場にはない。それを承知の上で、そしてその地位身分がその個人に課す責務はちゃん果たした(もしくは果たしたという形ちを整えた)上でその個人が「いき」な何かをする。それは上位身分にいる「いき」が下位身分にいる「いき」に対して「何か」を恩恵として施す形ちをとる。勿論その恩恵は美しく演出されていなければならない。この美しい「いきな何か」が「いきなはからい」なのである。
「いきなはからい」に着目するならば「いき」をイデオロギーとしてとらえることは可能である。その場合「いき」イデオロギーの本質は:
(1) 身分や財産、それに基づく差別は社会に必要である
(2) しかし身分や財産、それに基づく差別が人間の尊厳を損なってはならない
(3) そのためには人間の価値がその人の属性たる身分、財産以外の何かによって評価されなければならない
(4) 人物を評価するそのような人間の本源的価値基準を「いき」という
(5) 上記の(1)〜(4)を体得することは「いき」であることの必要条件である
ということを理解することであり、その理解に基づいて生きることである。「いき」な人間は他人を身分や財産で評価せず、「身分や財産で評価しない」という点で他人を評価するのである。結局「いき」そのものが何であるかは分からないし、分からなくて良いのだ。ただ「いき」を理解し「いき」な生き方をする人間は、自ら権威主義的パーソナリティーから最も隔たったパーソナリティーの持ち主となる。
一方、人間が身分や財産によって差別されるのは人間の尊厳を損なう、だったら身分や財産をなくしてしまえという考え方も有り得る。こういう考え方は「ブルジョワ革命」や「共産革命」を生み出していった。「いき」イデオロギー称賛のためにはこれらの「野暮」イデオロギーについても検討して見なければならないだろう。だがそれは本稿の目的とするものではない。野暮について知りたければ「野暮の研究」でも始めてもらいたい。
(98/01/20)