姓を鄙埋(ひま)、名を仁(じん)、字を奈比人(なひと)、号を睡卿(すいきょう)と言い、元出羽庄内藩の御典医。儒仏国の三学にも詳しい。時の藩主酒井忠某公が世継に恵まれぬゆえ藩命を奉じて江戸に上り、色道に隠れなき悪井志庵先生の門を叩き、北里流の閨房術を学ばんとす。即ち廓内の太夫、新造は言うに及ばす、羽織、飯盛り、湯女、夜鷹、地獄に至るまで買わざるはなし。未だ色道を極めぬ内に腎虚に伏せる身となり、褥中春本を紐解く内に志過多黒白(しすぎた・こくはく)先生の「買いたい新造」「蘭学姫始め」を読んで刮目。俄に蘭方淫学を志し、長崎より密航、オランダを経てベルギーに至り、アントウェルペン(日本では英語名のアントワープ:Antwerpの方が有名。古くはAntverpiaといい、ベルギー南部の人はフランス語風にAnversと呼ぶが、現地ではAntwerpen)の飾り窓の女を中心に買い捲り、酒と女と放蕩三昧。ようよう路銀を使い尽くすも、藩からの仕送りをアテにして借金に借金を重ね、酒と女と借金三昧。考えてみれば国禁を犯して密航中の身、藩からの仕送りなどあるはずがなかった。かくてはならじと逐電、広く欧州大陸を放浪するも向学の志の萎えることなく、各地で借金を踏み倒しながら Prostituierte, Prostituee, Prostituerad, Prostitueret, Prostituée, Prostituta, Prostituir, Prôstibula, Prostytutka, Prostituátâと買い続け、欧州二十六ヵ国の借金取りから合同指名手配を受ける身の上となるや電脳空間上に逃げ込んで一草庵を営み、一時期は「助平は孤ならず必ず不倫有り」とて「有不倫堂」と号した。名前とID変えちまえば全く別人になれる電脳空間の盲点を利用したのである。近頃ようやく借金取りの追求が緩んだので再び鄙埋仁に復した。この鄙埋仁先生、日本では数少ない道教の修行者でもあって、それで道士の称号を持つ。すなわち鄙埋仁道士である。
出羽砦茂村の人。農夫。子供の頃から少し変わったところがあって、よく一人でじっと石を眺めたりしていたが、長ずるに及んでますますおかしくなり、十六歳の時からは全く人と言葉を交わさなくなった。二十歳を過ぎても嫁も取らず、食うに困らぬだけの野良仕事をして、後はボーとして雲を眺めているような暮らしをしていたが、或る日忽然として村から姿を消す。その後の五十年間はどこで何をしていたのか誰も知らない。出羽三山で修行を積み、様々な術を身に付けたともいう。すっかり歳を取り、白髪白髭になってから或る日突然白鶴に乗って古里の村に舞降り、自分が死ぬ日を予言して…その日に死ななかった。
みっともなくって再度村を逃げ出し、江戸へ出れば何か飯の食いようもあるだろうと考えて鶴を連れて上京。口入れ屋の入れ知恵で、浅草の観音さまの境内や両国の回向院で銭を取って人を鶴に乗せて飛ばす商売を始めた。この鶴が江戸城上空を飛んだことから奉行所に捕らえられ、航空管制法違反で取り調べを受けた。出羽の人鄙埋仁先生が同郷ということで八方手を尽くし、結局大城上空飛行の件は地理不案内ゆえに鶴が勝手に迷い込んだということでお咎めなし。ただし鶴のようなか弱き生き物に人を乗せて飛行を強いるのは動物虐待に当たるとして、鶴の解き放ちを命じられた。鶴がいなくなって飯が食えなくなった仙人は仕方なくそのまま鄙埋仁先生宅に世話になり、かつて出羽三山を駆け巡った健脚を生かして先生の薬持ちを始めた。夏冬構わずツンツルテンの一重の着物、尻端折りして重い薬箱を持って長く伸びた白い顎髭を風になびかせて走り、先生がまだ家を出るか出ないかという頃にもう先方に着いてしまい、先生が先方に着く頃には一足先に家に帰ってしまっているという。
いまだに無口で何を考えているんだがさっぱり判らないが、時々モソッと言う事がとても面白く、先生がそれへ尾鰭をつけて狂歌にすることを教えた。普通和歌だの狂歌だのというのは言葉を削って削ってそれでようやく作るもんだが、仙人の場合は逆で饒舌になって始めて狂歌が出来る。変わった作風である。
分識結山日乗院覚範寺(ふんしょくけっさんにちじょういんさはんじ)の住職。怛悽和尚(だつぜいおしょう)といい、でっぷりと肥っていて、油ぎった顔をした中年男。幼名を千太郎といい、七つのとき雀を飼った。天王丸と名付け雛のときから口移しで芋虫などを与えて育て、とても良くなつき、常に頭や肩に留まっていたが、あるとき天王丸が足元に纏わり付いているのに気が付かず、踏み殺してしまった。人と雀とではあまりにも大きさが違うのに、友達気分でいたのがいけなかったのである。この時「愛は衆生を救わず」と悟った。その後、無常の思い段々に募って遂に九つのときに出家得度、國景禅師に師事して「以怨報怨、憎憎相生、不止究究。以徳報怨、以何報徳」の公案を与えられる。各地に修行を積んだのち蛙の面へ小便をひりかけている時に大悟徹底、直ちに國景禅師のもとに戻り「これ大慈大悲の理なり、徳に報いるに徳をもってし、仇に報いるに慈悲をもってすべき、然而慈悲は報いを求めず」とて不愛の道号を授けられ印可された。
不愛は中々の遣り手で幕閣にもそれなりに顔が利き、寺勢の衰えていた覚範寺を建て直し、焼失したままになっていた本堂も再建した中興の祖である。何の身分格式もない生まれでここまで出世するからには、もちろん学識豊かで賄賂の使い方が飛び切り巧いのである。覚範寺にいる小坊主達がどれもこれも美形であるのは和尚が斡旋して大奥の女性達に彼らを定期的に献上しているからだという。
その一方で和尚は「乳繰り合うも他生の縁」と仏縁薄き女性のためにしばしば遊廓へ足を運び、時には泊まり込みで結縁を深めている。だが大概はキレイに金を遣って、何人も芸者衆も呼んで、若い衆やら何やらにも心付けは弾んで、酒なども上のものを飲み、肴なども奢り、遊びは面白可笑しく歌やら踊りやら、さてその上は随分遅くなってから「俺は野暮な用があるから」と遊女には何もしないで「今日は一人寝をさして済まないね」などと言ってそのまま帰ってしまう。口の悪いヤツラは寺の小坊主の方が良いからだと言っている。
また和尚は寺内に一草庵を営み、自ら不愛草庵主とも名乗る。発音がしにくいので世間の連中は縮めて不愛草と呼んでいる。あるとき民衆教化のために道歌を作り始めるが、理屈っぽいのやら庇理屈っぽいのやら、どうにもうまく作れない。悩んでいるときに馴染の遊女千早に勧められて狂歌作りに転じる。彼にはどうもこちらの方が性に合っているようであるが、滑稽な中にも分かる人には分かる御仏の教えを狂歌に込めることを念願としている。
江戸小川町で手広く商売を営む仕舞屋。無闇と商売が手広いもんだから人に聞いても真のところ何をしているのかさっぱり埒があかない。この仕舞屋の若旦那が遊冶郎である。両親を先年飛行機事故で亡くし家を継いだが仕事は番頭まかせにして遊んでいる。月代を細く剃り上げ、髷を細く結い、眉も下の方を毛抜きで抜いて細く拵えてある。細縦縞の着流しに、亜麻茶の地色に市川好みの路考茶を織り込んだ細身の博多帯を締め、時にはこれへ身細の海老茶の長羽織を引っ掛けてのよろず細造りである。
生まれ着いての極楽トンボのようでいて、本人に言わせると生まれて暫くはヤゴだったんだそうだ。「ボウフラや蚊に成るまでの浮き沈み」というのがあるが、ヤゴというのはずーッと沈みっ放しなんだと。それで「人生とは…」なんぞと考える暗い青春を送ったんだと。それがあるとき「こんな六ヶ敷事は千万年も昔から世の聖人賢人と謂はれるよふな人が考へて」それでいまだに答の出ないものを「おれのよふな凡愚が考へて答の出る筈もない」と気が付いた。こんな答えのでぬことを何故むきになって思い悩んでいたかと考え始めたところで突如ひらめいた。大体が死ぬのが怖くないようなヤツはとうの昔に皆んな死んでしまい、今生きているのは皆んな死ぬのが怖くて怖くてしかたなくて、一心に死から逃げ回っていたようなヤツの子孫なんだから、死ぬのが怖くて当り前、それで何か不滅のものに縋りたいと、生きた証が欲しいと、それだけのこと。死ぬのが怖いのは、怖がる方が生きて行くのに少々便利だというだけで、己一人生きようが死のうが十万億土の風の吹き廻しに何の違いの有るものか、全ては我心我執の成せる技と大覚した。
以来浮き世に漂うて生きる遊冶郎暮らし。生きて貪らず、枯れて死せず、非僧非俗の遊行者となった。
昔「ポルポト最後の秘密」を書いて全然売れなかった。伊惣郎氏の出身についてはその本の裏表紙に詳しく本人が書いてあるが、読まなかった人のために紹介しておこう:
吉原大門を入らずに左に折れ、お歯黒ドブに沿って進むと『国際非難万事引受処・黒蓮屋』と言う看板が目に入る。もし見付からなければ、新小指細工のお玉と言って聞くと良い。そっちの方が有名だから。そのお玉の処の隣が黒蓮屋である。どうにも建て付けの悪い小見世で、金回りが良い様にはお世辞にも思えん。看板に有る通りの商売で、世間でこれを叱られ屋と呼んでいる。飴狸化屋とか異議栗鼠屋とかいった大見世がドジやらヘマやら踏んだ時に、(責任)転嫁の一大事とばかり飛び出していって、替わりにマス・コミから吊し挙げを食らうのを生業としている。こうして置くと後で旦那衆から鼻糞銭を貰えると言うカラクリである。最近に成って、似品屋と言う上得意が付いた。ここの大番頭と言うのが品性よりも猿真似を重んじるタイプで、よその大見世が皆、闇堀上人(アンポリショーニン)と言う僧位を持っていると聞いて、自分も僧位が欲しくて、黒蓮屋にそそのかされて盛んに金を散撒いている。御陰で黒蓮屋も破産せずに済んでいる様なものである。世の中、上には上が有るもので、この黒蓮屋の二階に厄介になっている有象無象がいて、この連中がそもそも何を生業として、どうやって飯が食えているのか誰にも判らない。まさかあんな貧乏な黒蓮屋にたかっている訳では有るまいと思うが、何となくそこらをブラブラしたり油を売ったりするのが仕事らしい。この有象無象の一人が黒蓮伊惣郎である。元は何の某と名の有る定府の武士で、百石にも遥か足りない微禄ながら赤穂藩の家臣で、吉良邸討ち入りの謀議にも加わっており、本人もすっかりその気だったのだが、今宵は討ち入りと言う時になって、今生の遊び収めにと吉原の昼見世に上がり、つい昼寝をしたのが運の尽き、討ち入りの刻限に大幅に遅刻してしまい、吉良邸に駆け付けた時には後の祭、全部終わって赤穂の浪士は引き揚げた後だったと言う。かくては世間に顔向け出来ずと、お歯黒ドブの周辺居住者に成るうちに、手遅れになる事では有名な黒蓮屋に拾われて、名も伊惣郎と改め、二階に厄介、〆て述懐の身の上に成ったと言うのが、世間専らの噂である。
元々江戸相撲の龍田川関は出羽庄内藩抱え大関であったが、例の吉原大文字屋の花魁ちはや太夫、その妹女郎神代との悲恋物語をきっかけに国許に帰って豆腐屋になってしまった。この辺のいきさつは「千早太夫の部屋」にも書いてある。三十一文字に歌われて、外八文字も内八文字も逢阪の花魁も皆袖を濡らしたものだ。さすがにオカラさえ千早嬢に呉れてやらなかったのは世間の評判を落とし、国許にもいられなくなって電脳空間上に紛れ込み、名も下方赤向(しものあかむけ)と改めての戯作志願、ポルノ小説なんぞを書いていたが、性懲りもなく狂歌を再開したところですぐに身元がバレてしまった。
ならばと開き直って龍田川、名はそのままに使うことにして新たに姓をでっちあげ、南蛮渡来の椿の珍品で、唐人の後知恵(ゴティエ)という人から譲り受けたマルグリット種の盆栽仕立のものを殊の外愛着の故、珍椿と付け加えて珍椿龍田川である。(これは「ちんちん・たったかゎ」と発音していただきたい。)
別にわざわざ紹介するほどのものでもない。本会の書記を努める若い者である。ベストセラー作家柳亭種彦先生に憧れて、勝手に押し掛け弟子に行って、早く種のようになりてぇと「花粉」を名乗っている戯作志望である。