狂歌由来記

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(鄙埋仁)狂歌由来記
 和歌は我が国最古の文芸形態であると同時に、長く我が国最高の芸術たる地位を独占してきた。この和歌の一分野に戯れ歌があり、読み捨ての雑歌としての戯れ歌の歴史は和歌と共に古いと言ってよいだろう。しかしながら読み捨ての雑歌は文字通り読み捨ての雑歌として読み捨てられてしまい、戯れ歌が記録に残り後世の鑑賞に耐えることは稀であり、また戯れ歌が一般和歌と異なる独自の価値基準によって評価され、独自の文芸形態として一分野を形成することもなかった。

 武士が台頭して各地で相争うようになるとこのような状況が変化し、戯れ歌が和歌一般とは異なる価値基準によって評価されるようになった。すなわち武将が戦陣の徒然に、特に長引く攻城・籠城戦の徒然に、あるいは戦場の礼法としての各種の贈答の一種として、戯れ歌を遣り取りしたのである。このとき戯れ歌は武士の武器となった。すなわち戦場での贈答が単なる儀礼の意味の他に、しばしば「我が方にはこれだけの交戦余力があるんだぞ」という威嚇、恫喝に利用されたように、和歌の贈答も武将が知性や教養を身に付けている余裕があることを見せ付けるために利用されたのである。うまく和歌が作れなかった方は劣等感に悩まされながら、心理的に不安定な状態で兵の指揮をしなければならないわけである。そういう目的の和歌であるならば、出来るだけ相手を揶揄し愚弄し、あるいは自己の精神的余裕を誇示出来れば、それだけ味方の兵士の士気を高め、敵の士気を挫くことが出来る。彼我の精神戦を有利に進めるためには通常の芸術的和歌とは異なる和歌が求められたのである。戯れ歌は諸将諸兵の間に流行し、多数の戯れ歌が戦闘の合い間に生み出されて、太平記をはじめとする各種の軍記物に、読み人知らず、いかなる烏滸(痴れ者)の読みたる歌か知らず、として書留られるに至った。戦場でどれだけ苦しい立場に置かれていようとも、それを相手に気取られないために戯れ歌の一つも作って戦陣の悲惨を笑い飛ばす度量が武将には求められた。

 戦国時代に一時期和歌一般とは異なる独自の価値を見い出した戯れ歌であったが、世の中が平和になると共に戯れ歌の独自の価値も存在理由を失ってしまった。徳川時代になって戯れ歌は普通の和歌のどうでも良い一分野に埋没し、再び読み捨ての雑歌として低い評価しか与えられない存在に戻ったのである。この戯れ歌が天明期に突如として江戸狂歌として一大黄金時代を迎えることになった。天明江戸狂歌以前の戯れ歌の中心地が和歌一般がそうであるように上方であるのに対し、天明狂歌の中心地は江戸である。この時期突如として狂歌が大流行したのは、狂歌が単なる戯れ歌ではない、和歌とは異なる独自の価値を持った文芸として確立されたことを意味する。狂歌の独自の価値とは、単刀直入に言うと、和歌を愚弄することである。そして和歌が日本の芸術に占める地位から言って、和歌を愚弄するとは芸術を愚弄することだと言っても良いだろう。

 和歌の伝統が根強い上方では、和歌そのものを愚弄することはなかなか思い付かなかったのだろう。和歌の伝統の弱い、と言うか、和歌の伝統の無さに劣等感を抱いていて、その劣等感やひがみの裏返しとして何が何でも上方を見返してやりたくてしょうがない江戸の田舎っぺ供が、ある日突然和歌を愚弄することを考え付いてしまったらしいのだ。この方が和歌や芸術の面で上方の伝統に追い付くよりずっと簡単そうだし、それにスリルもある。江戸狂歌の作り手達は時に自らの歌を夷歌、夷曲と呼んだ。上方の和歌(倭歌)が文字通りには大和地方の歌であるならば、その大和の地から遠く離れた坂東の地の、荒夷達が作る歌は夷歌である。天明狂歌は和歌の一種なのではなく、独自の価値観に裏づけられた反和歌である。和歌を芸術とするならば狂歌は芸術ではなく、反芸術である。

 反芸術としての狂歌は三つの形態をとる。一つは芸術としての短歌が守るべき作法、使用可能な技巧を全部文句なく採用した上で、ちっとも芸術的でない作品を作ってしまうことである。当時の短歌の王道であった、技巧をふんだんに用いた古今流の作風は揶揄の格好の対象になってくれた。およそ芸術になりそうにない主題を選んで、ありとあらゆる技巧を凝らし、その芸術的見てくれと非芸術的中身の格差を楽しんじゃうのである。あるいは一層のこと主題まで芸術的(になり得る)主題を選んでしまう、そして和歌の作法を守り、和歌の技巧を用い、ちっとも芸術的でない和歌を作ってしまう。知的遊戯としてこれ位面白いことはそうそう他にない。全うな和歌をちゃんと作れる技術があって、わざと変な和歌を作るのである。日本の和歌は基本的には叙情詩である。(明治になって写生などというタワケたことを言い出す輩が現れ、分かち書きの散文としか表現のしようがない愚作が現れるまでそうだった。)で、糞リアリストが自分の心情風景をセツセツと歌い上げたら、これは芸術と呼べるのか?てなことをやって遊んじゃうのが狂歌の一つの行き方である。

 二番目の狂歌は俗語・日常語を使い、それゆえ本来なら芸術にならないはずのものにちゃんと芸術的感性を歌い込んじゃうことである。和歌の作法だの技巧だの、そういうものは出来るだけ下手糞に用いる方が良い。(こういうものを用いないと素朴で大らかな歌に仕上がってしまう心配がありますから下手糞に用いましょう。)芸術的な中身と芸術離れした外見の格差を鑑賞してもらうのである。この二つの狂歌の方法論の違いは天明狂歌発生時からすでに存在し、一方は四方赤良が、いま一方は唐衣橘洲が主導してライバル意識を燃やし、天明狂歌の二大潮流となった。両者の激しい路線論争は、後に彼らの系譜を引いて立った宿屋飯盛、鹿都部真顔の全盛期に無用の対立さえ引き起して、この対立はその後の狂歌没落の一因となった。

 第三の狂歌作成法は既存の、出来れば「権威ある」和歌をチャッカリ利用して、そのパロディーを作り出すことである。他人の和歌を利用することは本歌取りとして和歌の確立した技法であるが、この本歌取りの挙句に元の歌の幽玄で雅致な世界を卑俗で愚劣な世界に引き擦り込むことが出来れば元の歌の「権威」を茶化すことになるし、元の歌の幽玄とパロディーの卑俗の対比でウケを狙うことが出来る。ただしパロディーがウケるためには、狂歌を作る側も鑑賞する側も和漢の古典に対する十分な教養が具わっていなければならない。そのような古典教養を一般庶民にまで期待することはかなり無理があると言わなければならないだろう。

 狂歌の爆発的な流行の結果、十分な古典教養を持っていない庶民層にも狂歌が浸透したことは反って狂歌の質的低下を引き起した。今日、和歌や俳諧、川柳(狂句)の隆盛と比較した場合、狂歌の不振は歴然としたものがある。もともと和歌や俳諧は芸術であり(俳諧は松尾芭蕉が芸術にしてしまった)特に論ずるほどのものではないが、川柳に比較してさえ狂歌の衰退は目に余るものがある。川柳が五・七・五合計十七音で構成されているのに対して、狂歌は五・七・五・七・七の三十一音で成立している。狂歌の方が十四音分長いのだが、この長さが狂歌製造を困難なものにしているのである。一見長い方がイッパイ色んなことが言えて良いように思えるかもしれないが、狂歌にせよ川柳にせよ韻文であって散文ではない。長さは反って制約条件である。何かしら面白い現象、滑稽な事物というのを発見し、これを十七音に凝縮したならばそれで川柳というものは成立し得る。言わば着想一つで勝負出来るのだ。一方狂歌は着眼点がどのようにユニークなものであったとしても、それを素直に歌ってしまっては狂歌にならない。見たままを凝縮して歌にするだけなら川柳の十七音で十分可能なのだ。「見たまま」では七・七の十四音が余ってしまう。当然この余りの部分で古の歌詠みの感動の名場面と比較して古の感動を茶化してしまうとか、一つの歌の中に感動とおふざけと二つの意味を同時に読み込んでしまうとか、何かしら一捻りも二捻りも捻りを効かせなければならないのである。

 千早太夫の御歌に

カハ虫ノなヲ求ムルヤよし原ハ
 出ルよしトテ稀ノ細道

とあるが、これは「な」が「名」と「菜」、「よし」が吉原の「葦」原、出る手立ての「よし」、それぞれ二つの意味に掛かっており、「毛虫の名を知りたい(から江戸城へ来い)というお招きではございますが、(遊女の身ゆえ)吉原を出ることは容易ではないのでございます」という我が身の不遇をセツセツと歌った歌であると同時に、「毛虫の(に食べさせる)菜を手に入れたいの?(何か勘違いしてない?ここは)よし原(とは言っても実際に)は葦なんか滅多に生えてこないんだよ」というとんでもないトンチンカンな返事にもなっていて、しかも「毛虫の名を求める」というのが古の虫愛づる姫君、按察使の大納言の娘の故事のパロディーにもなっている。また「稀の細道」というのは大江匡房(おおえまさふさ)の

山里は稀の細道跡絶えて
 まさきのかづら来る人もなし

の本歌取りであろう。このように狂歌は本歌取りや掛詞を縦横無尽に駆使して、一捻りも二捻りもしなければ作品にならない。川柳であれば吉原の遊女に「珍しい虫が見付かったから見においで」と、何も考えずに呼び出しを掛ける大奥の女性の無知振りをストレートに笑ってしまえばそれで作品として仕上がるし、和歌・俳諧といった「芸術」に至っては遊女の身の上を悲嘆(愚痴?)してりゃーそれで済むのだ。

 狂歌を作るという作業には、言語技術を駆使する熟練した技術者の技が要求されるだけでなく、不幸のドン底にあって不幸に溺れず、幸福の絶頂のあって幸福に溺れない、自分の感動自体をも茶化してしまう「理知的な感性」をも要求されるのである。天明期の江戸狂歌を特徴付けるものとして「狂名」というものがある。大工の棟梁の鑿釿言墨金さん、お堅い侍暮らしの門限面倒さん、有名歌舞伎俳優の花道つらねさん、屋号の蔦屋に引っ掛けた蔦唐丸さん、生活に苦労していた質草少々さん、多分酒癖の悪かった酒上不埒さん、頭が良かったのか悪かったのか知恵内子さん、人生一から出直しそうな元木網さん、髪に不自由していたらしい頭光さん、その昔精神が錯乱していたわけでもないのだが紀定丸さん、とても釣りが好きだった手柄岡持さん、江戸時代にサーファーがいたとは思えないのだけれど浜辺黒人さん、もっともらしい芸術風狂歌を始めてしまった鹿都部真顔さん、単純明快多田人成さん、等々、まだ挙げて行けば切りがないが、これらはいずれも自分自身をも茶化してしまう狂歌的神経の現れである。こういう神経の持ち主がなまじ古典教養など身に付けてしまうと、どうしてもその教養を茶化してみたくなる。

 しかし現実問題として熟練した言語技術やら理知的な感性やらを誰でもが気安く持っているわけではない。天明狂歌の爆発的流行の結果、一般庶民が大量に狂歌に流入し、狂歌を作る、あるいは狂歌を鑑賞する十分な能力を持たないままに所謂「低俗狂歌」「駄酒落狂歌」を粗製濫造し、その一方で鹿都部真顔らが日常語は用いつつも極度に卑俗な言葉は避け、和歌の作法・技巧もそつなく用い、狂歌の号それ自体を改めて俳諧歌と呼んで、変に中途半端な芸術風狂歌を始めるに至って、狂歌界はその指導理念を見失い、毒気を抜かれて亜流の和歌に堕落するか、ただただ奇をてらって無教養文芸化する(無教養というのと教養を茶化すというのは同じことではない)かしてしまった。ここに至って狂歌は没落の坂道をひたすら転げ落ちて行くことになったのである。さらに明治以降和歌そのものが「感動を素直に詠む(のであれば分かち書きの散文にしかならないはずだが)」奇妙キテレツなる詩論の影響を受け、技術水準の大幅な低落を被り、はては俗語・日常語まで平然と用いるようになっては、和歌そのものが出来損ないの狂歌・俳諧歌と区別が付かないようになってしまった。なるほど万葉集の再評価がなされたことは慶賀の至りだが、それ以外の点では明治という時代には良い事は何もなかった。和歌そのものが権威を失ってしまっては狂歌は何を茶化したら良いのか?本歌取りをしてみたところで世間の連中が本歌を知らなければ評価の受けようがない。教養などカケラもないような連中を相手に教養を茶化してみたところで、そもそも連中は何の話がされているのか、そのこと自体理解出来ないだろう。寛政およびそれ以降の時代を狂歌の冬の時代と呼ぶならば、現代は狂歌の氷河期である。

 本会は「狂歌は反芸術なり、職人芸なり」の立場から狂歌の復興を願う有志の集まりであり、かつての唐衣橘洲や四方赤良の対立のような無用な内輪揉めを排し、正統狂歌愛好者の大同団結を計るものである。また我々は四角四面の真面目臭った芸術論を否定し

(1) 作者の価値はその作り出す作品の価値以上のものではない
(2) 作品それ自体を作り出すのは職人芸であり、芸術家としてのネームヴァリューではない
(3) それゆえ最も優れた作品は芸術家によってではなく、職人によって作り出されている

と信じている。我々は言語技術者として自己の技能の研鎭に努め、職人技の高い技術水準に支えられた狂歌の製造、普及に当たるものである。本会の目指す狂歌は一言で言って即ち「虚実習合」。古の秀歌の価値を認めつつその秀歌を茶化し、花鳥風月に感動しつつその感動を茶化し、理性を働かせつつ自らその理性を茶化し、茶化しの奥義を極めてついには茶化している自分自身を茶化してしまうことである。つまり茶化すものと茶化されるもの、虚と実のチグハグ振りや表裏一体振りを三十一音に詠み込むことを本会の狂歌の本旨とする。

(98/01/20)


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