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1590年、徳川家康江戸入府。
1600年、関ヶ原の合戦で徳川氏の覇権が確立。江戸が天下城となった。
この間江戸各所に傾城屋が開業し、食い詰め者・犯罪者の巣窟となった。
1612年に後北条牢人庄司甚右衛門らが中心となって
遊客の逗留は一日一泊のみとし連泊はさせない
人身売買はしない
不審者が紛れ込んだら届けでる
の三ヵ条を条件に公認遊廓の設置、遊女屋の集約化、闇売春の禁止を願い出た。
1615年、豊臣氏滅亡。
1617年の庄司甚右衛門らの再度の願い出に対し、さらに
遊女は遊廓内においてのみ客の相手をし、遊廓外への出張営業はしないこと
遊女は衣服華美にしてはならない
家作は華美にしてはならない
という付帯条件を付けた上で公認遊廓設置が認められて、葺屋町(現日本橋人形町付近)に二町四方の土地が与えられ、全ての遊女屋がここに集められて、庄司甚右衛門を総名主とする江戸における傾城業の独占営業が始められた。当時ここは葦の繁る原っぱで、ここから「よし原」の名が起り、これへ吉字の「吉」を宛て「吉原」とした。ぐるりを堀で囲み、出入口は大門一つ。ここへ四郎兵衛番屋をおいて人の出入、特に遊女の逃亡を監視させた。
1657年の明暦の大火の後、吉原は中千束村へ移転。これを「元」吉原と区別して「新」吉原と呼ぶこともある。新吉原は地域が三町四方に拡大されるなど規模が拡大した他は基本的には元吉原に準じ、堀に囲われ、大門一つのみを出入口としていた。江戸城の北の方角にあることから「北」とも「北里」とも「北国」とも呼ばれ、堀で囲まれた特異な形状から「廓」とも呼ばれ、その廓の中にあることから「ナカ」とも呼ばれた他、遊女達の独特の喋り言葉から「アリンス国」とも呼ばれた。
遊女の数は二千数百人から七千数百人まで時代によって増減はあるが、平均的に考えて三千数百人といったところであろう。当初遊女はその商品価値によって太夫、格子、局、切見世などに別れていた。太夫が最上級で、能、地謡、音曲、茶、香、和歌、俳諧、その他芸術一般、碁、将棋は勿論のこと、得意不得意はあるものの自然科学、人文科学、和漢の古典にそこそこに精通し、客のいかなる趣味にも応対することが出来た。後に吉原の大衆化に伴い遊女のランキングも呼出し、座敷持ち、部屋持ち等に変わった。
(98/01/20)