無神論者のための年賀欠礼

年末に親が死んだ。珍しいことである。そもそも親が死ぬというのは生涯に何度もあるようなことではない。それが偶然年末だった。それで、ふと考えた。「年賀状をどうしよう?」

世間ではこういう時に年賀欠礼というのを出すそうである。「誰某が他界したので忌服につき年賀は遠慮します」とか何とか書くのである。だが私は根っからの無神論者である。無神論者には他界も忌服も知ったことではない。ついでに言えば世間のしきたりも知ったことではない。無視して年賀状を出そうかとも思った。・・・だが年賀状はやはり出さないことに決めた。

早い話が年賀状というのは面倒臭いのである。毎年文面やらデザインやら新しいものを考える。そういうことが好きなら良いだろうが、私には面倒臭い。それが年賀欠礼なら通り一遍の文面で済む。せっかく親が死んでくれたのである。面倒な年賀状を出さずに済むのは親の恩である。生前親孝行らしい親孝行は何もしてないのだ。ここで親の恩を無にしてはならない。だから年賀状は出さない。問題は年賀欠礼を今から出して間に合うかどうかだ。

で、調べてみたのだが年賀欠礼というのは、年末の内に出しておくものと、それが間に合わなかった場合に相手から年賀状を貰ってから松の内が過ぎてから寒中見舞いとして出すものと、二種類あるようだ。つまり間に合うとか間に合わないとかは考えなくて良い。間に合えば間に合ったように、間に合わなかったら間に合わなかったように文章を使い分ければ良い。これで安心をした。さっそく通り一遍の年賀欠礼を・・・出そうとしてつまずいた。

通り一遍の年賀欠礼の文面というのが、困るのである。納得のいかない文面なのである。つまり世間一般の通り相場では年賀欠礼には「他界」とか「忌服」とか「遠慮」とか書かれることになるようだが、私のような無神論者にはこれが納得できない。死んだ人間がその後どうなるかなど私には分らない。たぶん死んだらそれで終わりである。とても「他界」したと言えた義理ではない。死を忌むべき理由も分らない。忌むべき理由が分らないから遠慮する理由も分らない。家族から死人が出たら身を慎まなければ不幸を他人にうつすとで言うのだろうか。だいたい人間最後には死ぬのに、そんなもののどこが不幸だ。仮に不幸であるとしてもウチの親は癌で死んだんだ。癌は伝染病じゃない。だから間違ってもうつることはない。全然遠慮する理由がないのに、そして遠慮してないのに「遠慮」と書くのは嘘になる。私は嘘は嫌いだ。

で、間に合う、間に合わないは二の次にして、ネットで年賀欠礼の文例を探してみることにした。無神論者のための年賀欠礼、そんなものを探してみたのだが、ない。かわりに浄土真宗のサイトが一件引っ掛かっていた。ウチ、浄土真宗です、全然信じてないけど。で、あらためて自分の宗旨はどんなものだったのかと読んでみると結構良い事が書いてある。親が死んでも全然気にしないで年賀状出しても良いそうです、浄土真宗では。死を穢れとはみないので「忌中」のはり紙をしないとか。そう言えばウチのオヤジがどこぞの葬式に出た時に貰ってきた清めの塩をオフクロが料理で使ってたっけ。あれって無神論だからというより浄土真宗だからだったんだな。

浄土真宗では迷信を信じないし、縁起を担がない。まことに無神論と相性の良い宗教である。というか、こういう家庭環境で育ったから無神論者になったのかも。

だいたい世の中に宗教なんぞというものは何万何十万と存在し、それぞれ自分のとこが正しい、我が教えにしたがってカクカクシカジカすれば救われる、なぞと言っているが十中八九詐欺である。いや何万何十万の自称正しい教えがあるのだから、本当に正しい教えに出会う確率はもっと低いはずだ。限りなくゼロに近いと思っていて間違いない。

その点浄土真宗では「浄土真宗の教えを信じれば救われる」などとは言わない。「浄土真宗の教えに従って、何々すれば救われる」とも言わない。開祖親鸞は自分の教えが間違っているかも知れないことを認めた上で、「間違っていたら間違っていたで地獄に落ちれば良いだけのことである」と言っている。少なくも浄土真宗は詐欺ではない。

年賀欠礼だって浄土真宗に従えば、無神論者としても立派に通用する世間一般の縁起担ぎ的なものとは無縁の年賀欠礼が出せるのではあるまいか、そう思って「浄土真宗」と「年賀欠礼」で再度検索をしてみた。

すると使える文面もあるのだが、使えない文面もあれこれ出てくる。無神論者として使えない文面というのは、「今年○○月に○○が浄土往生の素懐を遂げ・・・」といったものである。私は浄土だの往生だのは信じてません。だから「浄土往生」は困る。「死去」とか「勝手ながら」とか宗教に関係ない語彙を使って書かれた文面を参考にして自分なりに年賀欠礼を考えてみました。

<<無神論者のための年賀欠礼その一(12月初旬に間に合う場合)>>

  ごぶさたを重ねておりますが
   お変わりなくお過ごしのことと存じます

  今年○○月に私の○○が死去いたしましたので
   新年のご挨拶を申し上げるべきところ
    喪中につき失礼させていただきます

  皆様にはどうぞよいお年をお迎えください

   ○○年十二月
           住所
                氏名

<<無神論者のための年賀欠礼その二(新年に出す場合)>>

  寒中お見舞い申し上げます

  新年の賀状を頂戴いたしまして有難うございました

  新年の御挨拶を申し上げるべきところ
   昨年○○月に○○が死亡いたしましたので
    勝手ながら年賀のごあいさつを失礼させて戴きました

  本年も変わらぬ御厚誼のほどお願い申し上げます

   ○○年十二月
           住所
                氏名

<解説>
その一の最初の二行は時候の挨拶である。二行でなくても一行でも十行でも好きなだけ書けば良い。文章も「新年おめでとう」以外なら何でも良い。というか、まだ12月なのだから正月には間がある。

その二の最初の二行も挨拶だ。年が明けてしまっているから寒中見舞いだ。相手からの年賀状は貰ってしまっているので、それに対する礼も述べなければならない。

三行目以降に年賀状を出さない理由として、何時誰が死んだのか簡潔に書いた。

「死去」や「死亡」は逝去でも良い。薨去や崩御という言葉もあるようだ。子供の場合は夭折や夭逝という言葉もある。だが無神論者たるもの他界や永眠は良くない。天寿も良くない。他界についてはすでに書いたが、「あの世」の存在を前提にしている。永眠というと「二度と目覚めない」という意味では永眠だが、夢を見るわけでも寝返りを打つわけでもないのに永眠ということはできない。天寿というのは天が人が何歳まで生きるか決めているという思想が背景にある。だから全部ダメである。死んだものは死んだと言えば良い。それが無神論者流だ。

「喪中につき」より「勝手ながら」の方が少しだけ良いかも知れない。私が横着をして勝手に手間を省いているだけなのだから、その方が正直だろう。ちなみに浄土真宗のサイトではこの「喪中」が評判が良くない。喪中は忌中に通じ、死を穢れとして忌む意味があるというのだ。だが浄土真宗のサイトも認める通り「喪」と「忌」は混同されているのであって、元々の意味は異なる。「喪」は「泣く」であり、「忌」は「恐れる」である。近親者が死んで悲しくて年賀状を書く気にならないのと、死を恐れて回りに迷惑を及ぼすまいと何もしないのとは異なる。混同されているとして、混同している人間が悪いのであって、混同されている「喪」が悪いのではない。だから私は気にせず「喪」を使う。

逆に浄土真宗のサイトでは「遠慮」という言葉を平気で使っていた。だが親が死んだからといって誰に対して遠慮する義理があるのか。ただ単に私が「失礼」だから年賀状を出さないだけである。死という不幸が他人に伝播しないように「遠」い将来のことまで配「慮」して年賀状を出さないというのとは違う。

最後にもう一度、通り一遍の挨拶をして、以下日付け、住所、氏名で終わる。

<参考にさせていただいたページ>
http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/nenga1.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/nenga2.htm
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/porori/keturei.html
http://www.posteios.com/PROJ_B204.htm
http://www.kvision.ne.jp/~jyorenji/sougi.htm
http://village.infoweb.ne.jp/~fwkz2694/tokusyuu.htm


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